2014年11月2日日曜日

ムスタファ・ケマル・アタテュルク(1881~1938)





「トルコの父」の鋭い眼光は
戦勝国をもうならせた

1881 オスマン帝国に生まれる
1919 第一次大戦終結…オスマン帝国敗北
1920 セーヴル条約の締結
1919~1922 イタリア=トルコ戦争
1923 ローザンヌ条約
1923 ムスタファ大統領就任
1925 女性解放
1928 文字改革



◇ムスタファ・ケマル・アタテュルクは、教科書では「ムスタファ・ケマル」と表記される場合もありますが、「ケマル・アタテュルク」とも表記される場合もあります。このうち、「ケマル」とは「完全な」を意味するあだ名で、日本で言うと中学生ぐらいのときに数学の先生に名づけられたそうです。また、「アタテュルク」とは「トルコの父」という姓で、晩年、といってもまだ40代後半ですが、その業績に対して与えられたあだ名のようなものです。これをつないだムスタファ・ケマル・アタテュルクは「完全な・トルコの父・ムスタファ」という、たいそうな名前になりますね。また、肖像画や写真にはただ者ではない目力で、この人ににらまれたら何でもOKしちゃいそうな人です。

◇ムスタファの経歴は38歳のころ終わった第一次世界大戦まではほとんどオスマン帝国の軍人としてのものでした。第一次大戦ではドイツ・オーストリアと並び、敗者側に立ったオスマン帝国ですが、彼はイギリス軍をはじめとする連合軍の侵攻をなんども食い止め、英雄としての名声を得ていきます。

◇敗北したオスマン帝国、もちろんごっそりと領地を奪われる…のですが、ムスタファたちはただでは領地を渡さない、と抵抗運動を組織します。連合国は首都イスタンブールを占領し、オスマン帝国の領地をごっそり減らす「セーヴル条約」を結びます。ムスタファたちは連合国に占領されたイスタンブールを脱出、アンカラに「トルコ大国民議会」を結成し新たな政府としての声をあげます。一時的にトルコは、イスタンブールのオスマン帝国政府とトルコ大国民議会の二重状態になります。


◇一方、トルコの敗戦をチャンスだと考えた国があります。戦勝国側のギリシアです。実はギリシアとトルコは宿敵といってもいい間柄で、トルコの敗戦につけ込んで領地を回復しようとしていたのでした。ムスタファは自ら軍を率いてギリシア軍を破ります。連合国はその一員であったギリシアを守らなければいけない立場なので、ローザンヌ条約を結び、トルコの領土の拡大を認めさせます。そして圧倒的な国民の支持のもと、オスマン帝国の「スルタン」の地位を奪って共和制を宣言します。これを「トルコ革命」と言っています。その後、文字革命や女性の地位の向上など、トルコの近代化に努めました。まさに「トルコの父」です。

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